卒部式のひと言 2004年3月卒部

青木 政彦
 
川本先生 4年間お世話になりました。人間としても陸上競技者としても成長できました。
 入部してすぐの自己紹介の時、「今年中4系メンバーになる。」と言ったけど、今考えると宮田さんや三木さんなどの先輩がいる中で恐れ多いことを言ってしまったと思う。
 もともと自分としてはブロック長とか好きじゃなかった。でも先輩たちを見ているうちに自分が短々ブロックを見ていきたいと思うようになり、幹部交代のときには、ブロック長は譲れないとまで思うようになった。いざ受け持つと大変だった。みんなの支えがあって、東北インカレ4系優勝できた。何度見ても感動する。
 自分がここまで、入学時はIHさえ出ていなかったのに、成長できたのは工藤がいたから。去年は練習来なくて「何だあいつ」と思ったけど、今年一緒に練習してがんばっているので大丈夫。短々のメンバーには、工藤を支えてほしい。
 栃木で家建てるときは青木にどうぞよろしく。
荒井 謙
 こんにちは。川本先生いろいろな面で成長することができました。ありがとうございました。いつもと違って堅苦しい言葉ですが聞いて下さい。4年前に前期で筑波に落ちて後期でここに受かって来ることになりました。今思えば最初ここで強くなりたいという気持ちは持っていたんですけど、思っていただけでただ練習していただけという気がします。ここでの4年間は怪我との戦いでした。高校から肩を怪我していて、2年でやっとやりをなげれて、東北インカレの前に右肘の靭帯を怪我して、その冬に手術しました。手術をしますと先生に言いに行ったときに先生に言われた言葉があって、「ここで腐るなよ」と言われ今でも頭に残っています。この日はちょうどたまたま先生の誕生日でケーキをもらって、「これでがんばれよ」って。研究室をでてすぐに食べました。もう一つの大きな怪我は、一年生は知らないと思うんですけど3年の夏合宿。忘れもしない8月1日。棒高をしていてあの高さから走路に顔面から落ちて、生まれて初めて骨折して、合宿中なのに申し訳ないと思っています。その日は合宿の中日で昼から海にいけるってときに鯨に病院に連れて行ってもらい、鯨には保護者みたいにしてもらった。宿舎に帰ってからも、俺頭打ってたから夜中も2時間おきに意識あるかって起こしてくれて、そのときはほんとお世話になりました。手術を決めたときや全カレ前とかにほんとに思ったのは、なぜ陸上やってるかとか思いはじめて、やっぱり自分は陸上が好きだから、目標があるからってほんとに思って。やっているというか大学まできてやらせてもらっているんだなと思って、こんな怪我してて親にも悪いと思いました。他にもやりたいことはいっぱいあるんですけど、優先順位をつけなきゃだめで、どうしても陸上やっているのでできないこともあるけど、勝負の世界なので陸上優先にしていかないと勝てないので他のことは我慢する。それはそれでいいんじゃないかと思います。怪我してていいことはないんですけど、怪我で今までこうやってこれました。春からはここにいるみんなと同じで学生として勉強、陸上やっていきます。明日から福島をでてガラッと環境がかわるんですけど、チームも変って、これからはライバルでありながらみんなのことを仲間と思っていきます。OBとして誇りを持って行きたいと思います。ベタだけど川本先生をはじめ、4年生、OBの方、後輩、家族両親、ほんとにそのおかげでした。最後になりますが、これから試合で会うことがあると思いますが、元気な姿成長した姿をみれることを期待しています。シーズン間近ですが、怪我している人いると思いますが、その人その人のやることを考えてしっかり治して頑張って下さい。というか頑張って行きましょう。
鯨 昭文
 川本先生4年間いろいろやらかしましたがありがとうございました。せっかくここで話をするのでためになる話をと思いましたが私の話を聞いても君達のためにはならないでしょう。4年間陸上をやってきたけど満足できなかった。インカレでリレーの決勝は外されるし、いいタイムは出せないし。そんな人の話を聞いてもためにならないのかな。例えば数学で20点、30点のやつから聞いても意味がないように。教採も一次で落ちてどうしようもない、勉強不足だった。89人受けて一次が50人受かって二次はその中から30人受かるのに3分の1にも入れなかったのは勉強不足だった。実習で生徒を目の前にして話を伝えるには目を見ないと伝わらないことがわかった。指導録も紙に書く人もいたが自分は頭の中に記憶し紙には書かなかった。人に何かを訴えたいときは目と目を合わせる。面接等でも目と目を合わせるのが基本、筋です。いかりや長介が映画で言ったように「正しいことをやりたいなら偉くなれ」陸上も同じでやりたいことをやりたいなら強くなれ。結果を残すことが大切。結果を残さないうちは誰も認めてくれない。教員でも講師が言うことは聞いてくれない。とにかく自分の夢に向かって頑張れ。
 就職は下綱教育事務所で、中学校の数学の常勤講師で働くことになりました。なかなか言えないことなので秘密にしてきました。小6からの夢で第一歩がはじまりました。とにかくみなさんはやりたいことをやるためには結果を残すことです。
菅原 利真
 こんにちは。川本先生、四年間ご指導大変ありがとうございました。1年生は1年間、2年生は2年間、3年生は3年間、4年生は4年間一緒にやってきました。本当にありがとうございました。僕と同じ学年の人の話を聞いていていろいろと話を思い返していました。前期試験の時に自分の後ろが高野で、その後ろに原田がいて、こんなに雪があるのが信じられない等という話をしていました。入学式ではでかいめがねをかけた高野がいて、同じクラスには原田がいました。本当に早い四年間だったと思います。四年生との出会いは僕にとって財産だし、これからもずっと付き合っていきたいと思っています。4年間一緒にやってきたのは4年生だけで、泣いたり、笑ったりいろいろな思い出がありますが今ではいい思い出です。特に跳躍ブロックには高野、西城、森田や鈴木がいて、みんな仲良くて練習中もうるさいくらいわいわいガヤガヤ、あーでもないこーでもないと話しながらやっていました。大会で記録がのびなかったり、練習に行きたくないと思う時もありましたが、同じ学年の仲間の支えがあったからここまでこれたと思います。ブロックが違うみんなとはあまり関わってこれなかったのですが、後輩の支えもあったからこそここまでやってこれたし、支えということに関して本当に感謝しています。中学から陸上をやってきていて、大学生としては終わりになってしまいますが福大の陸上部で学んだことは一生の財産です。恩返しの意味でも、これからも指導者の立場などから陸上競技に関わっていきたいと思います。私的なことですが荒井とは入学したときからなにをやるにしてもずっと一緒で、この4年間のことをなんでも話せるのが荒井であって、一人でもそういう友達を作れたことをすごくうれしく思っています。これからもよろしくお願いします。この陸上競技部で、みなさんと出会えたこともこのメンバーでできたのも運命だったと思います。みんなも出会いを大切にしながらこれからの人生を過ごしていってください。進路の方は今年もう一度教員採用試験を受けようと思っています。陸上競技も続けていける限り続けていきます。宮城で大会も多いようなので、宮城で大会がある場合はできる限り応援にいきたいと思っています。頑張ってください。
高野 祥
 四年間の節目として、川本先生四年間指導していただきありがとうございました。これからは1年生より新鮮な気持ちで頑張っていきます。自分にとっての陸上について話したいと思います。
 小学生の時から身長が高く、毎日普通に平凡に過ごしていました。そんな日に物足りなさを感じ、中学生の時部活に入ろうと思いました。身長が高かったのでバスケットやバレー部も考えましたが、陸上なら自分にもできるかもしれない!と思い入りました。その時から毎日楽しくて楽しくて、小学校時代はモノクロだったのが、陸上を始めたことで、陸上自体、そして仲間と一緒にいるの時間が楽しく、カラーテレビへと変わっていきました。今の自分がここにいるのは中学校で陸上競技を選択したからです。陸上から勉強することができ、感謝しています。
 もうひとつ話したいことがあります。みんな合宿などでみかけて知っている人もいるかとは思いますが、牛乳が大好きで、いつも牛乳と隣り合わせで過ごしてきました。今じゃ牛乳がないと眠れないくらいです。この前自分にとって四年生の仲間とはなんなのかな?と考えたとき、ただの友達でもないし、親友?なのか。そして家族でもない・・・。牛乳じゃないか!!と思いました。四年間を振り返って原田と菅原と受験をし、一年生の時、ふがいない結果を報告しに先生の所へ行ったあとに、悔しくてトイレで泣いたときもありました。冬季練坂ダッシュをしたこと。厳しい練習をしたこと。ファイトッ!と支え合ったこと。応援してくれたこと。これらの経験は自分の血となり肉となり骨となっていきました。  四年間で身につけたものがとてもありがたいことで、大切にしていきたいです。みんなは四年間支え続けてくれました。これからはみんなにとっての牛乳になっていきたいです。五年生になるという選択を許してくれた両親と、四年生のみんなと先生、先輩方に感謝します。
森田 寛之
 川本先生、4年間温かいご指導ありがとうございました。何を話そうかずっと考えていたけど、決まらなくて、まずはじめに高野と菅原がいたから今の自分があることと、横のつながりが保たれた。俺たちの学年、この仲間でやってこれてよかった。いろんな友達から相談された事もあったけど、自分は技術が足りなくて悩んだりしたけどそんな時、隣に高野と菅原がいてくれて、夜遅くまでここはこうやるんだよって教えてくれて、それが思い出です。みんなにも横とか縦のつながりがあると思うけど、言いたいことを言って刺激しあったほうがいいです。その時口論したことも、いい思い出になるので、表面だけのつきあいではない付き合いをしてほしいです。
 後輩にアドバイスしたいことは、冬期練がんばってひっぱって、気持ちだけは負けないようにしてほしい。自分は春に結び付かなかったが、記録は少しづつのび、そして確信できる。具体的に、着実にのばしていってほしい。進路は、地元の大野小学校の常任講師になりました。去年高校世界史を受けていたときは夢を見ていた。部活が終わって卒論を書いているときに色々考えて、小学校に決めた。これから何年かかるかわからないけど、いい先生になりたい。今、自分にできることは何か、何ができるのかを考えてがんばっていってください。
渡邉 智幸

 みなさんこんにちは。川本先生、考え方や人間として役に立つものを先生から教わったと思います。おかげで社会人としての基盤ができました。みなさんの前で話すのは引き継ぎ式以来で、前に聞いたけれど足立はよい話をするなと思いました。自分は田舎から出てきたので、入ったときはチームの先輩から訛りをからかわれました。雉子波さん橋本善夫さんにも自分のまねをされました。会ったときなど「智幸ですけど」など挨拶かわりに言われました。今となってはそんな訛りも消え一人の大学生としてきちんとみんなの前で話せるようになりました。
 みなさんには二つ話したいことがあります。一つ目は自分は三年生から長距離ブロック長をしたのですが、その当時上に先輩がいませんでした。二つ上には多くの先輩がいて一人だけどしっかり頼むと言われましたが、自分はどうしていいか分かりませんでした。どう頑張ればいいのだろうと思いました。下にも頼ることができなかったのですが、それがいい機会となりました。自分が三年になったとき東北インカレで総合優勝したいという四年生の気持ちが伝わってきました。その時自分が変わらないと、と思い二年の冬季練は今までにないくらい頑張りました。自己新は出たのですが、まだ東北で少し戦えるくらいでした。でもそれが自分を変える一つの要因になりました。自分は高校で化学をやっていたのですが、化学変化が起こるときは、塩基配列が不安定なときで不安定なとき安定しようとして変化します。それと同じでそのとき安定するところがなく練習をがむしゃらにやり、変わることができました。たえず安定した状態でいることはあまりよくないと思います。自分の中でいいと思っていることも少し変わることがいいです。これが自分は一番いいというそれだけに収まる
だけでなく、どうにかして変化していこうという気持を持ったほうがいいです。
 二つ目は、四年間を振り返ってとても充実しています。自信を持って社会に出ていくことができます。一つのことに没頭したことによって自分に芯ができ、それで自信がつきました。時間に余裕の多い大学生はいろいろなことができますが、一つこれをやったという核のものがなければいろいろやっても何をしてきたのということになります。陸上もその核になります。それを中心にやっていきながら違うものもやっていくことが大切で、いろいろなことをやったからといっていい経験になるわけではありません。一つのことを四年間やっていくということが大切です。これからそうやって何年かある大学生活を過ごしていってはどうかと思います。
 四年生にはずっとお世話になりました。後輩たちにもお世話になりました。自分が部を引き継いだときと比べてしっかり成長してきたというのが分かってうれしいです。自分は部長という器ではなかったのですが、部長をやるという決意をさせてくれたのも四年生でした。何もできなくみんなに迷惑をかけましたが、このチームで部長をできたというのはよかったです。この部は一人一人がしっかりとしていて、少し言うだけでみんな分かってくれました。
 青木には一度おかしくなったとき、電話で相談しました。これは陸上以外の悩みだったのですが、電話で何を話しているのか分からないのに「今行くから待ってろよ。」と言われうれしかったです。
みんながみんなを思いやりやっていくといいチームができると思います。今年のテーマは一所懸命で、ブロックブロックが頑張れば強くいいチームができるかもしれませんが、一本一本で別々に土に植わっていても、横との繋がりがなければならないです。主根も大切ですが、側根も大切で茎が絡まりながら根を伸ばしていけば、強いチームになっていくのだと思います。川本先生や先輩がいい土壌をつくってくれているので、そこに根を伸ばしていけばいいチームができると思います。
 自分はみんなが好きでした。これはLoveではなく、Likeの好きです。Loveの人もいますが。人の面倒を見るのが好きだからみんな頑張ってほしいと思います。
 就職については相馬郡の小学校で一年間講師をすることになりました。海が近いので相馬郡に来て時間がある人は来てください。フラれたりして海を見に行くときなどでもいいです。遠いようで近いですが、こういう繋がりは大切だと思います。心が栄養不足のみんなを満腹の栄養にして帰すことができると思うのでぜひ来てください。

西城 恵
 川本先生、四年間ありがとうございました。私はみなさんの知っている通り、気仙沼の田舎からきました。田舎娘の私がやってこれたのは、ここにいるみなさんと先輩方の指導と陸上があったからです。特に少ない四年の女子の三人には感謝しています。就職試験で、「一番嬉しかった事はなんですか?」というところに、去年の北日本インカレで2p全カレのB標準をきれたこと、と書きました。鮎美も全カレ行きを決めていたので、それが全カレに行くという気持ちの刺激となりました。性格も考え方も全然違うけど、私の支えでした。残したい言葉として、高校の時に香縫の高校と合宿した時の山形城北の先生の言葉なのですが、「限りある人生、限りない未来」というのをみんなに言いたいです。言葉の通り、残念ながら人生には限りがあるけれど、自分の未来は自分でつくるのだと思います。みなさんは陸上を続けていくと思いますが、陸上で大きな未来をつくってください。とにかく悩んでも、自分の人生、自分のやりたい事をやればいいと思います。やりたい事が決まったらそこでどうやっていくかだと思います。とにかく、未来はみなさんでつくっていって下さい。
 私は日本興亜損保に四月一日から勤めさせていただきます。気仙沼で一般職をやるのですが、陸上には関わっていきたいので、審判や応援としてみなさんをみていきます。私も頑張るので皆さんも頑張って下さい。

鈴木真由美
 川本先生、わがまま放題やらせていただきありがとうございました。ほとんどの人が、練習や試合に出ている姿を見たことがないかもしれないけど、一年の冬期に体を壊したことが一番の理由で病院に行って、ひどいときは運動停止と言われて正直終わったと思いました。人生の中心が陸上だったのに、本当に大好きだった陸上を出来ないとわかって終わったと思いました。でも、本当に自分は陸上が好きで、出来なくても陸上に携わっていたいと言うのがここにいる理由です。どれだけケガして辛い気持ちになっても、陸上を好きなことを忘れないで欲しい。自分が辛いとき、どうしたいのか、どうすべきなのか…と考えたとき私はとにかく陸上が好きだからここにいたいと思っていました。今、ケガして走れない人が多いけど、走ってるときは辛くても走れないと走りたいと思うのはやっぱり陸上が好きだからで、それで本当に好きで入ったということを思い出してほしい。今、迷ってる人はこの先、自分がどうしたいのか、「自分が」ってのが一番だからどうしたら自分が成長できるかをいつも考えていてほしい。陸上部だから陸上をやればいいのではなくて、この陸上部で自分という人間を成長させてほしい。私が四年間でしてきたことは自分が成長するために何をするべきかということで、私は人間として成長させてきた自信はあります。みなさんも頑張ってください。
 それから、埼玉のホテルに就職が決まりました。まごころ国体で天皇陛下が泊まるホテルなのでテレビに映ったときは思い出してください。国体は応援に行くので多くの人が来れることを祈っています。

竹内 昌子
 川本先生、四年間ありがとうございました。これからもご指導よろしくお願いします。昨日まで宇都宮合宿に参加して、自分が初めて合宿に参加した時のことを思い出しました。その時は新入生で参加したのが自分だけで、先輩方の名前を覚えることが目標でした。私は失敗ばかりの四年間で、一年の時にビデオの充電機のコードをなくしてしまったり、寝坊をしてしまったり、礼儀がなっていないと先輩に怒られたりとみなさんに迷惑をかけてきました。でも、今の自分がここまで成長してこれたのは、先生やみなさんのおかげです。
 陸上をしていく中で、悩んだり困難にぶつかる時もあると思うけど、そういう時こそ成長できる時だと思います。例えば算数のテストのように×印が付いたときほどなおしていけるところだから、みなさんも頑張っていって欲しいと思います。四年間経験してきて、失敗してきたこともありますが、これからもお世話になるので、いいアドバイスができるように広い心と大きな目で…目は小さいですが…チームに貢献していきたいです。来年度もよろしくお願いします。
原田 鮎美
 
川本先生4年間ご指導ありがとうございました。話を聞いていて、陸上部に入った1年生のときの気持ちを思い出してきました。後ろに座って話を聞いていたのが懐かしいです。  
 福島大学には母と2人で出てきて、始めは雪が多いんだろうなというくらいの気持ちでしたが、宮田さんや雉子波さん、茂木さんなどを見て、自分は来る場所を間違ってしまったのではないかとも思いました。2年生の時まで、けがなどで一回も試合に出られませんでした。「よくやめないでいられるね」「ウエイト室にずっといて楽しい?」などと言われたりもしましたが、陸上をずっと続けたいと思っていました。それは、自分が速く走れる人になりたい、雉子波さんのような速く走れる人になりたいと思っていたからです。いつも自分のメニューの合間にウエイト室からみんなが走っているところを見ていました。その時に学んだことは大きいです。2年の終わりの最後の個人選に、どうしても出たいという気持ちにかられました。そのことを先生に言いに行った時に、「練習していても試合に出なきゃ楽しくないだろ」と言ってもらえました。それまでウエイト室にいたら迷惑なんじゃないかなどという気持ちもありましたが、自分はここにいていいんだと思えるようになりました。一緒に練習できるようになってからは、みんなに引っぱってもらいながらがんばってついていきました。家にこもってしまったこともありましたが、そのときも周りのみんなに支えてもらいました。
親への恩返しとして、ずっと大学での大会を見てもらいたいと思っていました。4年生の時に全カレに出ることができ、親に「見に来て欲しい」と言うことができたことが一番よかったと思います。
 みんなの中にも、けがをしたり病気をしたりしてつらい人がいると思いますが、それを乗り越える事が大事で、将来つらいことがあった時にきっと役に立つと思います。今は東京のジムでアシスタントなどをしています。大変なことも多くありますが、陸上部の時の乗り越える気持ちを思い出し、がんばっています。これからは、そのジムの大阪店のオープニングスタッフとして働くことになります。
短短のみんなはいろいろ話しに来てくれたり、香縫を始めとして女の子たちみんなに支えられました。香縫も私と同じで、短短4年の女子が1人ということで大変なことがあると思うので、みんなで支えてあげて欲しいです。大阪の方で試合がある時には応援に行きたいと思います。