卒部式のひと言 2009年3月卒部

伊藤 昇平
 川本先生、ご指導ありがとうございました。ここで4年間学んだことを、社会で生かしていきたいと思います。 3年前に卒部式で先輩の話を聴いたとき、自分はどんな気持ちで卒業するのかな、どんな話をするのかなと思っていました。実際、今何を言うか考えて考えて、話すことがありすぎましたが、ひとつだけ話そうと思います。 僕自身、4年間で表立った成績は残せなかったけれど、ただひとつ、私の勲章といえるのは、納会で頂いた優秀選手賞だったのかなと思います。川本先生がおっしゃった言葉に「卒業するまで一旗揚げていきなさい」というものがあります。僕にとっての旗は優秀選手賞です。 優秀選手賞をとるまでの過程は様々なものがありました。例えば、去年の東北総体では、学生という素人が大会を運営していくのは大変でしたが、みんながいたからできました。ももりんダッシュでは、坂水さんを始め仲間がいたから成功できて、結果的に優秀選手に選ばれたと思っています。 4年間を振り返って、先輩にものの考え方や見送り方、指導の仕方を教えて頂きました。後輩からも支えられて、中途半端なことはできないと思いました。4年間過ごしてきたみんなからは、自分はいじられキャラだったので、いじられてばかりで、こいつとは縁をきってやる!と本気で思ったヤツもいました。それでも切れなかったのは、一緒に辛いことを乗り越えたり、頑張って陸上をやってきたりしたからこそ、今の仲間が大切に思えるんだって思います。仲間と頑張った東北総体や遠征、イベントにもう行くことはないと思うと、寂しい気持ちになります。ただ、別れがあるからこそ、うまく言えないけど、4年間を大切にできたと思いますし、いつか会える日が絶対あると思います。 話は変わりますが、卒業後は青年海外協力隊として、バヌアツで2年間小学校の先生をします。この進路に進もうと思ったきっかけは、ももりんダッシュや総体での運営にチャレンジできたことです。一歩前に出て行こうと思います。 最後に、4年間お世話になった先輩、後輩、先生をはじめOGの方々、そして福島大学に入学するときに何も言わずに「いいよ」と言って今まで支えてくれた両親に、感謝したいと思います。ありがとうございました。


上村 和弘
 川本先生、4年間お世話になりました。ここで学んだことを、何らかの形で、これからに活かしていきたいと思います。  こんにちは、ありきたりかもしれませんが、今日は4年間の集大成を話したいと思っています。昨日この4年間を振り返ってみて、1年生のとき、福島に来てまず「寒い」「風が強い」そう感じました。最初は南福島に住んでいて、電車通で駅まで自転車でいっていました。風が強くて自転車が前に進まない、地元ではそんな事がなかったので驚きました。  2・3・4年色々ありましたが省略します。ただこの4年間とても長かったです。みんなは早かった、短かったと言っているけど、僕は10年間もいた気がします。それは学ぶことが多くあったからだと思います。小学校の6年間は長かったが、中高の6年間は短かった。それだけ小学校は多く学ぶことがあったのだと思います。ここにきて、厳しいところだったので、長く感じた部分もありました。でも4年間を通してここ福島の風や雪が、今ではいとおしいと思うようになりました。つらいことが人を成長させる、楽だと思うことでは成長しない。つらいことしか人を成長させることはできない。だから自分がつらいと思わないとそこに成長はない。福島大学には感謝しています。4年間全部乗り越えられてきたのも仲間の補助があったからこそで、仲間、先輩、後輩、先生、もちろん4年生、みんなのおかげだと思います。本当に4年間いろいろあり、もう一緒に練習、ミーティング、バスで遠征ができないとなると、どうにもつらい、でもこれが青春だと思います。30・40歳になったら酒を飲みながら、こんな話をしてみたい、そのときには僕もお酒に強くなっていると思います。 進路のことですが、大学院には進学しません。色紙に大学院でもがんばってくださいと書いてくれた人には申し訳ないです。本心としては、大学院で頑張りたかったんですが、講師になることになりました。日本一の大学で学んだ事を生かし、しっかりと活躍できたらいいなと思います。4年間本当にありがとうございました。

苅田 恭祐
 4年間ご指導ありがとうございました。おかげで社会に貢献できるような人になれました。 こんにちは、すでにフライングして泣いてしまったのですが、上村君のあとなので、何を話したらいいのかなと考えたのですけど、えーと、まず、ここに入学してこんなに多くの部員がいて、とても多くて、僕の高校ではそんな人数もいなくて、5人とかそれくらいしかいなくて、ただテキトーに練習にきて、テキトーにやって帰っていただけでした。4年生のみんなとは1年から一緒で、高校3年間ちゃんとやってきた人とは、3年間の差がついていて、その差を深く痛感した甘い18歳でした。 初めて東北インカレに出たのがリレーで、高校では1回もなかったから右も左もわからないまま1走で走りました。リレーは仲間がいるからその分だけ速く走れる。今までリレーは1走をほとんど走らせてもらいました。2年間同じメンバーで走っていて、1番速いタイムで走れた時のことは、今でも感動します。2年間かけて出したタイムだから・・・。そのたきに上村の姿がなかったので、バトンをつないでそのタイムを抜きたいと思いました。夢はかない、1走苅田、2走上村で走りました。バトンを渡す瞬間、上村の大きな背中を追いかけ、無我夢中で走りました。上村の大きな背中を追いかけて、無我夢中で走ることがもうできない、そう考えると涙が止まりません。 総体の時、仲間に申し訳ないことに、前日肉離れしてしまい、リレーは走らないと決めていました。当日の朝、上村が肩を叩いて「おまえの分まで頑張ってくるから」そう言ってくれて、自分は最低のことをしていると考えました。リレーメンバーのみんなと話し合い、バトンがつなげない、走れない可能性があるのに、みんなは僕を1走に選んでくれたことは今でも感謝しています。また、あの時先生が「走れ」と「後悔する形で終わっていいのか」と言ってもらえなかったら、大きな財産を失うところでした。本当にありがとうございました。次になるリレメンの後輩にはがんばってほしいですね。バトンは軽くて短いただの棒だけど、みんなの気持ちがこもると、あんなに重くて、あんなに勇気をくれるものはないと思います。上村に一度も勝てなかったのは今でもすごく悔しいし、いつも背中しか見えなくて、勝ちたかったです。最後も背中しか見えなくて、悲しい気持ちでいっぱいでしたが、安心している自分がいます。 人前で騒ぐのは好きだけど、こういった感じで話すのは嫌いです。最高の4年間、仲間ができて、さみしくなったら会いに行きますんで。ここ笑うところだったのですが。 最後に進路についてですが、地元の広告代理店に勤めます。形に残るものに関わっていきたいと思っていました。相手のイメージに近づけて、人の気持ちを読み取らないといけない仕事で、とても大変だと思います。死ぬ気で死なない程度に頑張っていきたいと思います。 話がまとまらなかったのですが、本当にありがとうございました。

渡邊 梓
 先生、ここで教えて頂いた事を、中学生や高校生に伝えていきたいと思います。本当にありがとうございました。 私が初めて福島大学のグラウンドに来たのは、高校3年の8月でした。日本一リレーが強い福島大学で、同じ出身である先輩の真弓さんがいたこともあって、ここで陸上をしたいと思いました。当時の練習日誌に「練習の雰囲気がいい」と書いた覚えがあります。初めての練習メニューはBack to backでした。先輩には「今日は軽めでいいよ」と言われてどんなものだろう?と思いましたが、私にとっては辛くて、高校の本練習のようにきつかったです。練習日誌には「これから4年間の合宿が始まる・・・」と書いてありました(笑)1日が長く濃く感じたけれど、振り返るとついこの間入学した感じもして、とても早かったです。 最初は、先輩たちのリレーに対する想いが強すぎてついていけなくて、恥ずかしながら、グラウンドで泣いて、先輩に慰めてもらったこともありました。このことから、中途半端な想いでやったら駄目だ!意識を変えなきゃと思いました。できるかできないかではなくて、やるかやらないかと覚悟を決めて、やっていくことを学びました。 困難に立ち向かうときに支えてくれたのは仲間です。みんな家が近くて、何かあるとすぐ家に行ったり、何も言わなくても分かってくれたり、私にとっては家族のような存在でした。頼りないところもあったかもしれないけど、ついてきてくれた後輩も嬉しかったです。仲間や後輩に会うとほっとします。私は新潟に行くことを帰ると言っていたのですが、福島に来ることを帰ると言うようになっていました。母からは「いつから福島の人になったの」なんて言われました。遠征などから帰ってきて、駅や競技場を見るとほっとするくらい福島が好きです。 4年間、精神面ではいろいろと学び、教わりました。素晴らしい先生、尊敬できる先輩、かわいい後輩、大好きな仲間に囲まれて、本当に幸せです。ありがとうございました。 私はこれから新潟体育協会で競技を続けていきます。4年間学んだことを活かしていきたいです。

阿部 哲也
 川本先生4年間ありがとうございました。厳しい指導をしていただいたおかげで、別人のように成長することができました。 今言いたいことが二つあります。4年間で得たことです。 一つ目は、上にいくためには、それ相応の努力が必要であると言うことです。それは単純なことですけど、簡単なことではありません。一つの目標があれば、出来ることです。 それは、どの世界に行っても一緒のことだと思います。勉強でも一緒です。やり込んでいくことが大切です。簡単な目標だったら達成することは簡単です。その夢がでかければ厳しいものです。4年間でちゃんと目標があれば、しっかり努力できます。 陸上は勝ち負けがはっきりしているから、わかりやすく、一番になる人が、一番努力した人です。 そして、それに気付けて良かったです。 例えば、安達太良山に登るとします。ヘリコプターに乗って頂上まで登ったとしても、そこからの景色がどんなにきれいだったとしても感動しません。自分の足で登ったから、辛かった分、ただ見た景色よりキレイに見えるし、別に得るものがあり、自分の人生のためにもなります。 二つ目は、みんなと出会えたことの感謝です。ここに来て、4年間チームのみんなといれたことに感謝しています。 4年生でマイルを走ったときに思ったことがあります。今まで気持ちで走れ、と言われていたけど、気持ちってなんだ?と思っていました。けれどみんなに応援されて「これはやるしかねえだろう。やんねえとだめだろう。」って思いました。マイルのアンカーを走った時、みんなの応援で頑張れて、チームの大切さに気がつきました。 本当は4年間一緒に頑張ってきた仲間と、また1年生からやり直したいです。 みんなとは離れてしまって、今までのようにはいかないけれど、ここにいる誰かが死ぬまで、これからもみんなと思い出と積み重ねていきたいです。 話は変わりますが、今後はNOK株式会社という電気オイルが漏れないようなシールを作る会社に就きます。配属先は未定です。 僕はまだ陸上を続けます。福島駅伝で長距離に負けないように頑張ります。 4年生のあの応援がないと走れないので、これからも応援よろしくお願いします。 4年間ありがとうございました。

益田 憲幸
 
川本先生4年間競技は勿論、人間としても成長できました。4年前の自分と比べて本当に成長できたと胸を張って言うことができます。本当にありがとうございました。 こんにちは。この時期になると卒部式では先輩方が素晴らしい話をしてくださっていたので、卒部式に何を言おう、どんなことを伝えようか考えていました。そしてついにこの場所に立つことができました。すごい早いなぁと思います。 よく楽しい時間は早く過ぎて、苦しい時間はゆっくりと過ぎていくといいますが、この4年間はとても早く過ぎていきました。4年間楽しくて、濃かったです。この4年間のなかで僕は、忘れられない2つの涙があります。去年の2月頃ケガで全然走れなくて、350×3×3セットのメニューで、丹野さんにも木田さん負けてしまって、自分はブロック長なのに何をやっているのだろう…すごく焦りました。辛くて辛くて仕方がありませんでした。本当に生きてきたなかで底だったと思います。でも「そんなことないよ」と後輩や仲間が慰めてくれ、木田さんや先輩からは「これから積んでいけばいい」と言っていただき、これから頑張っていこうとなりました。 もうひとつは東北インカレで3位に入ったことです。ゴールした時に3位か4位かわからなくて、でも放送で福島大の益田が3位だとわかってすごく嬉しかった。この涙は逆にすごくうれしい涙でした。部内での問題とか、いろいろ辛かった中で勝ち取れた表彰台は最高でした。なにより阿部と一緒に表彰台にのれたからめちゃくちゃうれしかったです。 さっき阿部も言ってたんだけど、僕は気持ちを大事にしてきました。僕は身体能力がなくて、体育科の授業とかで上村とか中川と比べて全然できなくてで、ここにきてすごいやつがいるんだな…俺にできることは何かなって思った時、勝負できるのは気持ちだけだ!って思いました。誰かに何かが伝わる走りをしよう!と思いました。 僕はこの二つの涙から得たことでこれから社会でもやっていけるんじゃないかと思いました。そういう意味でこの4年間本当によかった。みんな言ってるけどこの4年間で得たものは仲間に会えたこと、後輩に会えたことです。自分のなかでも仲間は大切になりました。みんなには練習、授業、ミーティングでも本音で、辛いことや、喜怒哀楽の感情を出せました。この先こんなに感情を表せる仲間に出会えるか?出会えないかもしれない、だから本気で大事にしたいと思いました。一生の仲間に出会えたことを嬉しく思います。 話は変わりますが、去年の教員採用試験に失敗してしまい、春から講師の選択肢もありましたが、今年の試験に懸けようかと思います。きまった職にはつかず本気で勉強して学校の先生になれるよう頑張ります。僕の夢は小学校の先生になることです。僕は小学生のころに陸上の世界に導いてくれた菊田先生に出会ったことで人生が変わりました。陸上に出会えたことで、みんなにも出会えました。だから自分も誰かの人生に関わる仕事をしたい、その人の何かを変えるのに陸上を媒介にできたらうれしいと思います。幸い福島県は川本先生はじめ、先生方が陸上を広めてくださり小学校でも陸上が盛んで強いところも多いから小学校でも陸上にかかわりたいと思う。日清カップとかであえるかもしれません。選手としては終わりかもしれないけど、先生として指導する立場で陸上をしたい。まだまだ積もる話はあるけど、この先は夜の飲みの席で話したいと思います。 ありがとうございまいした。

青木 沙弥佳
 先生、4年間ありがとうございました。4年間で学んだことを活かしていきたいと思います。これからもよろしくお願いします。 こんにちは。今日が、今が、仲間とこうやって顔を合わせるのが最後で本当に寂しいです。私は仲間が本当に大事だと思っている人です。いろんな出来事がありましたが、一番思い出に残っているのはある大会で、私がバトンを落としてしまい失格になったことです。 対校選で、その時一緒に走った先輩が、「青木一人の責任ではないんだよ。」と言ってくれました。「チーム全体で戦っていて一人も欠けてはいけない。変わりの誰かであっても、その人が走らなければ繋がらない。チームの代表として青木がマイルを走った。」と言ってくれました。本当にその言葉で自信がつきました。その時に、もっと練習しなくてはいけないと思いました。 これからはナチュリルで陸上をさせて頂きます。 最近感銘を受けた言葉に「明日死ぬと思って一日一日を全力で生きろ」があります。縁起でもない言葉ですが、人間は生きている限り、いつかは死にます。だから、今しかないと思って生きるということです。もしも明日死ぬとなることもあるので、毎日毎日やるべきことをやるということです。これからも、一日一日を大切にして生きて、精一杯競技していきたいと思います。 こうして競技を続けられるのは、両親がいてくれたおかげです。ありがとうございました。

山田 千裕
 川本先生、4年間ご指導ありがとうございました。 こんにちは。 ここに来て4年間いろんなことが過ぎていきました。ひとつだけ伝えたいと思います。 今までいろんなことがありました。一年のときは情けないけど何回も辞めたいと 思ったり、いきなり競技場で泣き出したりもしました。でも自分でここに来ることを決めたのだから、となんとかやり切ることが出来ました。しかし、その気持ちが続くわけでもなく、どうしても辛くて悩むこと、考えることからも逃げ出すこともありました。先輩や仲間に迷惑をかけました。そんなときに高校のときに先生から言われたことを思い出した。「人との関係を大切にしなさい」と言われ ました。そのときは「ふーん」って思っただけだったけど、ここに来て分かった気がしました。ここに来るまでは、人から支えられていること、ありがたみをわからずにいました。導いてくれた人は家族であったり、仲間であったり、一人一人の出会いで具体的に何かしてくれてるかわからないけど、福島にきて一人になったとき、その大切さがわかりました。私が困っていることでみんな に困ることではないのに、なぜ助けてくれるのか?なぜここまでしてくれるのか?というので気付くことが出来ました。皆と家族のようにいられること、ただそれだけの気持ちで皆と助け合いながらこれました。 恥ずかしいことだけど、皆と出会えることはとても小さい確率だと思うのね。人と出会うってことすごいこと。例えば、私たちはいろいろな選択の中でここに辿り着いたのね。そして、たまたま高校を選び、たまたま福島大学で出会った。それはたまたまこの年代に生まれなきゃだめなこと。だから私たちはここで出会えた 。だから縁を大切にしたいと思う。縁を切ることは簡単。名前も出てこない小学生のときの子もいる。繋げていくためには年に一回年賀状を送るとか、電話をするとか出来ると思う。ここで出会った人とは絶対に縁を切りたくない。卒業するけど、一人一人との縁の貴重さをわかってほしいです。 私の今後ですけど、実家近くの小学校で講師をします。指導する立場として4年間学んだことを伝えて頑張りたいです。本当にありがとうございました。

青柳 輝彦
 川本先生、4年間ご指導ありがとうございました。もうちょっと自分から先生にご指導してもらえるようにしておけばよかったです。 こんにちは。頭の中が真っ白になっちゃって、手短に2つのことを話そうかな。1.4です。この数字は何だと思いますか?これは僕が4年間で歩いた距離です。地球1/4周とちょっとです。本練で1.4万km歩きました。練習日誌4年分探して、距離を確認してみたところ、この距離になりました。東京から、南極までの距離です。実はそんなにたいした距離ではなくて、月間300km、1日10km歩けばこの距離になります。金谷川から福島まで。短距離の人でも今から始めれば可能です。4年間続けるのは大変で、休まない、怪我をしない、風邪を引かない、怪我はなかったけど風邪を引いたりとかはよくあって、研究が忙しくて体調を崩したりしました。体調不良で休んでこの距離だったから、もっと2万kmくらい歩きたかったです。このうち1万km以上、1.3かそれくらいの距離を一生といっしょに歩きました。一生を最初に見たときは「なんだこいつ」、「なんだこのフォーム、失格しないのか?」、「本当に大丈夫なのか」と思いました。僕の目標としては最悪静岡でナンバーワンになろうと思いました。同じ競技をする仲間ができたけど、ファーストインプレッションは最悪でした。でも、1.4万kmは一生のおかげです。一生が励ましてくれたり、どら焼きを持ってきてくれたり、こんな仲間はいないと思いました。練習パートナーとしては役不足だったけど、僕にとって最高のパートナーでした。練習では異色の競技で、場所も違っていると思います。支えてくれる4年生がいて、グランドにいったらキモイ、キモイとバカにされると…、次第に気持ちよくなりました。かけがえのない仲間、これ以上ない仲間を手に入れました。本当に大好きです。後輩も大好きです。後輩に無駄に絡んだり、生協で「コーヒー牛乳買うの?」とか聞いて、ただの「こんにちは」だけじゃその子についてわからないので、後輩と先輩の付き合い方について考えた時期がありました。一生懸命考えた結果、こんな性格になりました。人と接するのが苦手だったので、1つ上、2つ上、OG、先生と接するにあたりこの福島大にいたら、自分は変わらなくてはならないと思いました。4年生に1人1人に役割があって、みんながそれを果たしたから僕もこんな風になれたんだと思います。自分が変われたのは、仲間のおかげです。4年生、3年生以下みんなに感謝しています。両親にもすごく感謝しています。積み重ねが大事です。仲間が大切だと思ったので、みんなに伝えたかったです。前の人の話を聞いて、自分の考えは間違ってなかったんだと思いました。前に他の人に埋もれない僕のカラーを言ったのを覚えていますか?僕らしさを忘れないというのはみんなの反応を見る限り、できたと思います。これからもしっかりキャラを出していこうと思います。 話は変わりますが、大学院に進学します。福島大学理工学群…、書いてる人にはあとで教えます。人間と機械がどうやって関わっているか、人間と機械のヒューマンインターフェイスについて研究します。人間と機械がどれくらい関わっているのか調べるので、陸上部の方にお世話になるかもしれないので、そのときはお願いします。

岡崎 崇典
 川本先生、4年間ありがとうございました。2年の冬に主務になってから、一番多く「ばかやろう」といわれたと思います。これからはそれを活かしていきたいと思います。 こんにちは。岡田の話を聞いて、この部でやってきた岡崎崇典のポジションは、主務だと思ったので、その話をします。2年の2月に、主務だった奴がやめて、4年で話し合って、自分も4年も「岡崎ならできる」と決めました。でも主務の仕事はそんなに甘くなく、初めての大会が東北インカレでした。次に来たのが、全日本インカレで、何度も「ばかやろう」と言われ、選手から心配される主務で、何のために自分はいるのか、と思いました。そんな中女子が総合優勝しました。僕はこの福島大学で「一発やってやろう」と思いました。個人での14分台や駅伝の東北大会の優勝ではなく、このチームで一発やってやろうと決めたのが、全日本インカレでした。それからは先生のブログを見たり、先生やOGが話しているのに聞き耳を立てて考えてみたり、なんとかしてチームを良くしていけないかと、考えました。去年のチームの目標が、「当たり前のことを当たり前にやるチーム」というものでした。勝つために選手の陣地を良くする、選手が力を出すために応援をしたほうが良かったら応援を良くしていこう、という考えにつながりました。当たり前のことをやっていくのは、簡単なようで難しいです。当たり前に気付かないことが多いと、3年の全カレから考えました。何で当たり前のことができないのか考えた時、真希子さんに「あんたはチームの顔になるんだから。」と言われました。表立って話すことが多いから、チームの顔になれと言われたのかもしれないですが、その顔になろうとすれば責任感が生まれ、大好きなチームのためだから、苦しいことは何にもなかった。みんなにもぜひ福大の顔になって欲しいと思います。いろんな顔があっていいと思います。ももりんの時の伊藤のような、青木のように走りで盛り上げるのも、何でもいいと思うし。それぞれ自分の顔を持って、チームを良くしてほしいと思う。福大を自分色に染めるんじゃなくて、自分を福大という色の中で出していくことが大事だと思います。僕が主務になって感じたのは、仲間の大切さです。いかにチームのために力を注げるか、この仕事をしていると、仲間ってすごくいいなと感じました。3年の全カレで、僕は何もできなくて、それを考えるとつらくて、弱い自分が出てしまいました。何で自分が走りたいのに走れないんだと考えたらJogすらまともにできなくて…。60分走ろうと思っても5分で足が止まってしまいました。弘生や岡田は、「何やってんだ」と思ったと思うんですが、何も言わず岡崎はやってくれると信じてくれて、駅伝でも2区で、「おまえならやれる」と走らせてもらいました。主務でつらさを味わえなかったら、この楽しさも味わえなかったと思います。今思うとこのメンバーじゃなきゃできなかったと思います。明日からいつもどおりが、いつもどおりじゃなくなるのが嫌です。駒田が文句言いながら、チームのために動いたり、文句を言いながらいろんなことをやってくれるのもないし、一回ご飯を食べて、もう一回ご飯を食べに行こうという岡田寛輝もいなくて、すごくさみしいです。これから先は、また新たな世界でいつも通りの自分を探していきたいです。本当に、4年生みんなは、僕を信じてやらせてくれてありがとうございます。ここにいると4年生のいろんな顔が見えて大変な騒ぎになりそうなので、これからの話をします。 千葉県鎌ケ谷市立東部小学校の教員になります。これからは、ジョークの通じる大学生じゃなく、下ネタも通じない小学生で、大変だと思うけどびしっと「こんな先生がいるから俺も頑張るよ」と言われるような教師になりたいと思います。

岡田 崇寛
 川本先生4年間ありがとうございます。人生は、いいときもあれば悪いときもあるということを学びました。 こんにちは。こうして4年間を振り返ると、楽しかったと思います。そのときはつらかったと思ったけど、それを乗り越えて、今この場に立っています。陸上を始めて今まで本当に楽しかったです。走るのが好きで、陸上を始めたんだけど、高校のときは人数が少なくて駅伝を走ったことがありませんでした。駅伝を走りたくて、大学に入って、4年生の仲間や、今こんなに後輩がたくさんいます。ある先輩に、「小さなことでも積み重ねていくことが大切だ」と教えていただきました。私には、その先輩が話さなくてもわかっていました。その先輩は、雨の日も、休みの日も、毎日走っていました。社会人になった今でも毎日走っています。その先輩のようになりたいと思いました。本当に大好きでした。男の人ですけど。私は毎日走ってきました。行動で示せる人間になりたいと思っていましたが、自分の力が足りず、後輩に対して、小さいことの積み重ねの大切さを伝えられないと思ったときに、走るのがすきで始めた陸上をやめようと思いました。初めて無断で練習を休んだことがあります。何をするわけでもなく、家でただぼーっとしていました。人生をあきらめかけたこともありました。すべてを投げ出そうと思っていました。そんなときに、弘生や岡崎が、こんな私を心配して家にまで来てくれました。そのときは二人のことを冷たくあしらい、「大丈夫だよ。」、何が大丈夫かわかんないですけど…。いま後悔しています。2人のためにもう一回走ろうと思いました。自分を心配してくれている人たちのために、陸上をもう一回やろうと思いました。グラウンドで待ってくれている人がいるならもう一回やろうと思いました。行動ですべてを伝えられる先輩にはなれなかったと思うけど、私はこの4年間、ここで一緒にやってきた仲間や後輩に出会えて、今私は、自分の陸上人生をやれたと思います。すみません泣いてばっかりで。もう泣かないって決めたんですけど。この場に立つと…みんなの顔を見ると、あと何日もいれないと思うとさみしくて、365日が来ないといいのにと思ったことがありました。時間が止まればいいと、こんなことを思わせてくれる仲間と出会えて、自分は本当に幸せだったと思います。社会人になっても仲間を大切にしたいなと思います。 4月からは、宇都宮にある会社で働くことになります。全国にある会社なので、どこに行っても陸上部には北海道から沖縄までいるので、やっていけると思います。この4年間は、私の人生の中で輝いていました。自分にとって幸せな時間でした。

菊地 一生
 川本先生ありがとうございました。先生の一言一言が心に響いて、自分を奮い立たせることができました。ありがとうございました。 僕は人の前に立って話すことが好きなほうじゃなく、何について話したらいいか分からなくて、今日は2つのことを話したいと思います。 1つ目なんですけど、本当に東北インカレでたった1点なんですけども取れたことが印象に残っています。競歩はみんなの前で歩けるのは東北インカレと記録会しかないから、俺らでしっかり盛り上げていこうと青柳にさんざん言われました。それを意識して4年間やってきました。青柳にファーストインプレッションは最悪と言われたり、2、3カ月に1回は、足にギブスをはめて来たり、体調をよくこわし本当に迷惑をかけたと思います。そんな僕でも東北インカレでチームの一員として、東北インカレという大きな舞台でのチャンスをいただいたことにたいして言葉にできないような思いがありました。当日の朝、先生にヤクルトをもらい「これを飲んだら失格しないから」と言われました。チームに何も貢献できずに終わるところでした。試合に行く前に、4年生のみんなに「頑張ってこいよ」と言われ、実力がないながら頑張って来ようと思いました。今回の試合は1点に執着しようと力を込めました。警告が出た時も応援で聞こえてくるゴーゴーレッツゴーも集中していてよくわからなかったんですけど、今思えば力になりました。そのとき初めて、青柳と抱き合うことができたのが印象に残っています。あの1点は高校の時のようにパッと試合に出てとれるものではなく、お世話になった人たちのおかげでとることができました。あの1点を取らせていただきありがとうございます。 2つ目に、4年生を仲間と思うのと同時に1人1人が先生だと思ってやってきました。1人1人の長所がスゲーなという憧れがありました。それを取り入れようと思っていたら4年間が終わってしまいました。そのなかで悔しかったのが、ゴミを拾うことができなかったことです。2年か3年のときにある人がゴミをさっと拾ったときに初めて、そのゴミがあることに気付きました。この小さなゴミにすら気づけないということは、もっと大きなことにも気づけないと思い、その一件があってから小さなことから変えようと思いました。ゴミを拾うということは地味なことだけど、小さいことからコツコツとやっていくことは競技に繋がると思いました。4年のときの記録が一番記憶に残っています。一番価値のあるシーズンになったのは、4年生、後輩、OG、先生のご配慮があったからだと思います。 話は変わりますが、埼玉県のりそな銀行というところに就職します。なぜ銀行に就職しようと思ったかというと、お金は色も何もない特別な商品で、それをどうやって差別化するかというと、その人の色、会社の色、人柄が関わってくるので、信頼が築けると考えました。東北の銀行には陸上部の先輩がいるので、上の人に負けないように関東で頑張って職を通して社会に貢献していきたいです。

菊地 弘生
 ここまで成長できたのは、先生のおかげです。 こんにちは。感謝の気持ちについて話したいと思います。僕は、小3から陸上を始めて、初めは短距離でした。中学校で長距離になって、その時の顧問の先生が「感謝の気持ちを忘れない」と言っていましたが、その時はよく分かりませんでした。大学に入って、親がご飯を作ってくれていたことなどについてありがたみを感じ、感謝というものについて知りました。陸上をやっても先輩に面倒を見てもらって、駅伝でも少しでも順位を上げて襷を渡したいと思ったり、実際に自分たちでクロカンやももりん、東北総体を運営してみて、大会の裏側を知り、感謝の気持ちを感じました。幹部交代になって、ブロック長になりました。前のブロック長がすごかったので、引き継いでやっていけるかプレッシャーがすごくて、12月、1月とやってみてうまくやっていけているのか心配でした。2月くらいに追いコンをして、前のブロック長に「俺は俺の色でやってきたから、お前はお前の色でやっていけ」と言われ、自分のステージでやっていこうと思いました。ブロック長として練習では負けない、多少膝が痛くてもやれると思ってやっていました。5月のインカレの3000mSCで結果を残せて、今年こそはチームにやっと貢献できました。ゴールして、自分の後に岡崎がゴールしてきて、自分のことのように喜んでくれて、2倍、3倍に嬉しさが込み上げてきて、こんな仲間とやってこられてよかったと思いました。岡田が体調を壊した時も、岡崎と一緒に行って、他の人を気遣い、いつの間にか自分のことのように接してくれる仲間がいてくれてよかったなと思いました。高橋も「迷惑をかけてごめん」と言ったり、自虐になるけど、俺らは嬉しいのにどうしてこんなに自分のことを責めるのか、と思いました。こいつらと仲間でよかった、と思うことがたくさんありました。自分は人見知りなところがあって、皆といても疎外感があって、一人でゲームセンターに行ってUFOキャッチャーをやったり、チョコボールをたくさん買って、皆に配ってアピールしたことが今となってはいい思い出です。バラバラになり会えなくなるのは寂しいですが、この4年間で皆に出会えたことを心に残して、皆と一緒にいるような気持ちでやっていこうと思います。 これからは、ケータイのアプリケーションをつくる会社に就職します。ケータイに入っているナビはうちの会社でつくっているので、道に迷った時は、それを使って目的地にたどり着いてください。auのEZナビウォークがそれです。ドコモや他の機種の人はダウンロードして下さい。月額315円くらいだと思います。 勤務先が東京なので全カレは応援に行きたいと思います。

高橋 直幸
 川本先生、4年間ありがとうございます。2年の途中にいけばた荘を紹介していただき、ありがとうございます。選手として復帰することを認めていただき、ありがとうございます。 こんにちは。人前で話すのが苦手なので紙に書いてきました。胸がいっぱいで何を話したらいいか分からないんですけど。本来だったらこの場に立つことはできなくて、体に問題がありまして、2年生のときにやめようと考えました。走ることをあきらめたくないと思ったり、みんなと別れたくないと思っていました。入ったばかりのころは、全然何も知らず、軽い気持ちで入ったら大違いでした。僕は強豪校出身でもなかったので戸惑い、どうしようもない人間で、みんなの後を追いかけていくことしかできなくて、情けない人間だと思いました。でも、みんなはそんなこと関係なくチームの一員として扱ってくれて嬉しかったです。そんなみんなに、何も返せていないのに、やめたくないと思いました。先生にお願いして戻ることができました。戻ったのはいいけど、なかなか思うように走れませんでした。3年の個人戦でどんどん自己ベストが出たとき、みんなが東北インカレや、全カレのような勢いで応援してくれてうれしかったです。仲間として認められているんだなと思いました。4年生と先生に支えられて今この場にいるんだと思いました。1人ではここまで来れなくて、両親やみんなに支えられているんだと思いました。3年の冬に幹部交代をやって、周りはみんな成長しているのを見て、自分は何をやっているんだと思い、自分が嫌になったり、隠れようとしました。信頼を裏切りたくないと思って、やってきました。弘生や岡崎や岡田も叱ってくれて、一生には愚痴ばかり言って悪かったと思う。青柳は相談に乗ってくれてありがとう。長井はあおるように走ってきて、古瀬もですが、これ以上後ろにいけないと思って頑張れたと思います。本当に4年の仲間や、自分を先輩として立ててくれた後輩、OBやOGの方がた、先生、両親には働いていくなかで、何らかのご恩をお返していけると信じています。 これからのことなんですけど、秋田の劇団わらび座に就職します。どうしてかというと、ずっとみんなの姿を見てきて、勇気や感動を与えられました。形は違えど、人に勇気を与えられる仕事に就きたいと思いました。スポーツと芸術は違いますが、そういうところは同じだと思います。わらび座の名前の由来なんですけど、わらびは花を咲かせないんですけど、地面の下にはしっかりと根を張ります。僕は競技で花は咲かせられなかったけど、いままでしっかりと根を張れたと思います。このことを活かして成長していきたいです。それができなかったら意味がないので、絶対に約束します。 本当に最後になりますが僕にしか言えないことを言いたいと思います。さっきの青木とかぶるんですが、武士の心得「葉隠」というものがあるんですけど、どういう意味か分からないんですけど。その中に「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉があるんですけど、みんなは、だから武士はすぐ死ぬ、と思う人もいると思いますが、「毎日を死ぬ気で生きろ」という意味だそうです。これからそういう毎日を過ごしていきたいです。生活を充実させたいと思っている方はぜひ、いけばた荘へはいって下さい。

神蔵 雄生
 川本先生、4年間ありがとうございました。厳しくも温かい言葉は、これからの人生に生きていく転機になりました。これからも頑張っていきます。こんにちは。僕は上村がさっき言っていたのと違って、この4年間は僕にとってあっという間でした。それほど色々なことに充実できました。そのうち陸上をやってきたのが大学生活の大部分でした。陸上をやり切ったという感じです。入学したての頃は練習の意図が分からず、お叱りを受けました。これまで、肉離れや神経痛などがあって大会に出られなくなって、家で泣き、一人でたそがれたこともありました。でも家でたそがれきれずに次の日はグラウンドに行って、練習をやりたいという気持ちが強くなり、毎日顔を出しました。継続できたからこそ4年目の個人選で入賞して初めて報告できました。その時継続することの大切さを学ぶことが出来ました。今まで陸上競技を始めて大学で10年目ですが、大学での4年間は僕にとっての転機でした。テントの立て方、跳躍で、どこで踏み込むかを考えることがいくつもありました。その考えは今でも研究にもつながっています。なかなか言葉足らずですみませんが、将来のことですが、あと2年間研究を続けたいです。研究は湖に生活しているアオコの研究です。詳しくは研究白書、辞典で調べてください。アオコは光や熱によって増えるものです。陸上部で学んだ、物事を考えるということがすごく研究に生かされています。研究をやっていて試行錯誤が大切だと知りました。これは陸上を4年間やってきたことがしみ込んでいます。4年間陸上を思う存分やらせていただいて、先生やOB、OGの方々、4年生、後輩の皆さんにはすごく感謝しています。進路については今言ったのでまた何かあればよろしくお願いします。ありがとうございました。

谷岡 一誠
 川本先生、4年間ふがいない僕を試合に出していただいてありがとうございました。また、2年生の卒コンの時に先生に「競技面以外でぬかりがあるから競技にでるんだ」と怒られ変わることができました。 こんにちは。本来自分は話すのが苦手なのですが、ここでの経験から学んだことを話したいと思います。僕は小学5年生の時当時の担任の先生から走るのが速いから陸上競技をやってみないかと誘われたのが始まりでした。中学校では顧問の先生がただいるだけでメニューを出してくれなかったので中学校の近くの高校に行き朝練とか時間がある時に練習に参加させてもらいました。高校に入って顧問の先生が県内で有名で練習は一週間のうち6日間練習で月曜日だけ休みでした。そのトレーニング理論は今思うと、本当にこれでよかったのかと疑問に思うものでした。その結果、オーバートレーニングになり怪我ばかりしていました。大学に入っても1、2年生のとき怪我が続き、さらに2年生の途中跳躍の先輩が進路の関係上辞めていってしまいました。そんなとき沼山が「俺らでひっぱっていこう」と言ってそれでどんどん成績が伸びていって、神蔵も練習に熱心に取り組んでいました。自分は練習の取り組み方やひっぱり方がわからず1、2年次では記録が伸びず、やめようかなと思いました。2年生の時卒コンで幹事になり、自分の足らなさから先輩、先生、OGに迷惑をかけてしまった時、先生から「競技面以外でぬかりがあるから、競技にもでるんだ」と言われたこともありました。幹部交代の話し合いの時、辞めたいと思っていたのが自分独りじゃなくて、その仲間で支えあい、変わろうと思いました。そこで自分に何が足りないのかと考えてみると、スピード練習はこれまでやってきてなかなか伸びないので、跳躍技術の面をとにかく鍛えよう、足りないところを頑張ろうと思い実践しました。中島や松島、吉江の2年生は自分より走るのが早いけど跳ぶのだけは負けたくないと思っていました。最後に7メートルを跳ぶことができ、4年間に悔いはあるけれども、形に残せたのは良かったと思います。今辞めたいと思っている人がいるかもしれないけど、逆に自分が変われるチャンスだと思います。ここに来ているから、みんな陸上を好きでやっていると思うけど、最初に自分がやりたいと思ったことなのだから最後までやりとおして欲しいです。今後のことなのですが、今年講師としてやっていきたいのですが、群馬の方からまだ連絡がないのでわからない状態です。地元が高崎市でその隣の前橋市に小学校時代の恩師の先生がいて陸上教室に教えに来ないかと誘いもあります。そういうのを通して、子供たちと触れ合いたいと思います。以上です。ありがとうございました。

沼山 一弥
 4年間競技者、人間としてたくさんのことを教えていただきありがとうございました。 こんにちは。今日壇上に立ってみて、本当に卒業できたのは、家族や先生、OG、OB、みんなのおかげだと思います。とくに4年生にはいろんなことを一緒にやってきて、勉強面でふがいない私を神蔵や青柳が助けてくれたり、練習でも上村や苅田が自分もつらいのに支えてくれて、遊ぶ時は馬鹿みたいに騒いで、ときには喧嘩して帰りの車のなかで1時間暗くなったり、飲みでは三段だろということで強い酒を3つ並べて飲まされたり、1年なのに跳躍はオレが引っ張るって言って岡アに酒いっぱい飲まされ・・・。そんなこともあり、こいつらと走りたい、こいつらのために跳びたいと思いました。先輩になって後輩ができて、山口は負けず嫌いだけど一番応援してくれて、私が跳ぶときは誰よりも大きな声で「沼山さん一本!!」と言ってくれて、繋がりが強くなりました。みなさんには感謝でいっぱいです。そんな大切な仲間とこれから会えなくなると思うとさみしいけど、これからはみんなが教えてくれた「人のために」ということを、社会に出て実践できる人間になれるように頑張っていきたいです。 これからは青森市北斗高校で講師として人のため、地域のために少しでもなれるように頑張っていきたいと思います。 4年間成長させてくれてありがとうございました。

角沢 奈保美
 こんにちは。私はみんなみたいにかっこいいこと言えないので、4年間陸上を続けてきて感じたことを話したいと思います。私は4年間陸上を続けてきて、人間は周 りの人や仲間がいないと頑張れないんだなあと思いました。 私は推薦で入ったけど、みんなと同じ練習をしているのに、練習についていけな くて1年生メニューをしました。私のような人が入るべき場所じゃないんだなあと思いました。練習は入学したばっかりの頃は嫌で、でも、みんなに会いたくて、練習を頑張ったら午後はみんなと遊べると思って、そのうち楽しくなって、陸上も好きになって、頑張れました。ここに来る前は嫌なことから逃げていました。でも、つらいことを頑張ったり、4 年間休まず続けてこられました。大きな結果は出せませんでしたが、みんなとい た1日1日が一生の宝物だと思います。 みんなが私を変えてくれて、みんなに感謝しています。ありがとうございました 。 みんなと会えなくなると思うと寂しいですが、みんなといた4年間があるから、これからも仲良しでいられると思うので、今日で終わりだなんて言わないで、またみんなで会いたいです。私は、卒業したら就職をして、仙台の長町にあるモールの婦人服売り場の店員を しながら、東邦銀行のようなモデルの仕事もします。どっちも力を抜かないで頑張ります。仙台の長町は駅伝のコースにもなっているので、仙台に来たときは、みんな私の家に泊まりに来てください。 本当に4年間いろんなことがあって、言い尽くせませんが、本当にありがとうございました。

岡田 寛輝
 川本先生、4年間ご指導ありがとうございました。川本先生のもとで4年間陸上をやれて、本当の意味で陸上が好きになれました。ありがとうございました。こんにちは。まず、この場で陸上とはちょっと違いますが、卒論の方でちょっと手惑いまして、みんなと一緒に卒業できないと思いましたが、無事この場に立てて卒業できてよかったです。ありがとうございました。この4年間を振り返ると、陸上競技とどうずま荘に尽きると思います。どうずま荘といえば、大学に行ったらフローリングの部屋に住みたいと思っていましたが、現実はそう甘くはなく、畳の部屋になってしまいました。最初はえらいとこに来たなぁと思っていましたが、今となってはあそこじゃないと住めないというほどです。駒田、上村、苅田、沼山、中川、という最高のメンバーに出会うことが出来ました。どうずま荘自体は明日引っ越すのですが、明日からは沼山の鼻歌、苅田の競技場とは違うテンションの低い姿、中川のオムライスを作る姿、駒田が車で帰ってくる音、上村の体調の悪そうな咳が聞こえなくなるのが寂しいです。僕は本当にどうずま荘を含め、4年生、後輩のみんなには感謝しています。4年生には、自分には一生の仲間が大学でできるのかと思っていましたが、練習の前日、夜遅くまでミーティングを重ねたりして深まりました。本当にかけがえのない仲間に出会えたと思います。また、連絡を取ったり、飲みに行きましょう。僕の大学4年間の陸上競技は、みんなは知らないかもしれませんが、怪我との付き合いでした。最近はグラウンドに行っていませんが、怪我で苦しんでいる後輩がいると聞きました。怪我は自分の甘さが出ているから怪我をすると思います。でも、それは自分にとってのチャンスでもあります。1年生の時に肘を怪我してやりを投げられるか?と思い、やめることも考えました。でも自分にとってのチャンスだと思うようにしました。例えばやりを投げられないとき、それをどこで補えるかを考えました。怪我を前向きに考えることが一つの手ではないかと思います。怪我をすることが良いとは言えませんが、怪我をすることもチャンスだと思います。後輩たちには本当に頑張ってほしいです。後輩には今までえらそうなことを言ってきましたが、僕個人としては、後輩と触れ合う中でとても勉強になったと思います。自分がこうだと思ったことを言ったときに、返ってくるリアクションで自分の思ったのが返ってこなかったときは、自分の力のなさを痛感しました。そういう試行錯誤の中で、自分も大きくなりました。そして勉強にもなりました。これからは、男子は男子らしく、女子は福島大学陸上部の女子らしく、強く頑張ってほしいです。地元に帰ってもパソコンなどでチェックをしながら応援していきたいと思います。進路ですが、輪島市の小さな学校で講師をする予定です。実家なのでフローリングの夢は叶わないのですが、福島大学で学んだことを生かし生徒にたくさんのことを教えたいと思います。ありがとうございました。

駒田 惇
 何を話そうかなと考えていたんですけど、普段は原稿を考えて覚えてくるんですが、今回は4年間の思いをみなさんに伝えたいと思います。まあ、断片的には考えてきているんですけれども。このチームの主将をした経験を通じて思ったことを話します。 この1年間チームの主将を務めて、「福島大学陸上競技部主将」という11文字では表せない程のとてつもない経験をさせてもらいました。 1年前、この場で前主将の茂木さんが、「1年間つらいことはなかった」とおっしゃっていたことを覚えているのですが、同じブロックだったということもあってどうしても自分と茂木さんを比べてしまうところがあり、もう数か月主将を務めきついと思っていた頃だったので、それを言われてこの人には追い付けないなと落ち込みました。しかし、最近になって思い返してみると、大変だったと思うことはあってもつらいことはなかったと思います。実は前に茂木さんと飲む機会があって、「あの話はウソだよ。川本先生が『社会ではもっとつらいことがたくさんあるのだから、ここではつらいという言葉を使うな』って言ってたからだよ」と言われて、1本取られたなと思いました。 この1年、陸上競技部の主将を務めていろいろ経験して、OB・OGにかわいがっていただいて、県北の先生方にも面倒を見てもらって、いい経験をさせてもらって、主将にしてくれてありがとうと思ってます。最初は、駒田はなっても副キャプテンか何もやらずに競技だけと思われていて、自分もそれでいいと思ってたんですが、教育実習が終わって帰ってきたら、岡田が「キャプテンは駒田でいい」と言い出して、隣にいた苅田も賛成してくれて、3日後にすぐ承認されて1ヶ月半の話し合いは何だったんだろうと思いましたね。 この1年主将を務めて、これからこのチームを引っ張っていく人たちへ、感じたことを1つ伝えたいと思います。去年長距離のブロック長は、『人』という字は人と人とが支えあっていると言っていましたが、自分は何か違うんじゃないか、これはどう見てもちっちゃい方だけが支えてるんじゃないかと。でもよく見てみたら、これは中学校の時の組体操に似ているなと思いました。人というのは支えあっているというよりも信じ合ってる。長い方は短い方を信じてるし、短い方は長い方を信じ、支えているのだと思いました。自分は支えてくれる人を信じてやっていこうと思いました。 これからチームを引っ張っていく人たちは、すべて上手くいくとは限らないけれども、上から下から色々言われるかもしれないけれども、それは困らせようと思ってのことじゃなく、その人なりにチームのことを考えてのことだから、それをちゃんと理解してお互いを信頼することが大切だと思います。 去年の就活で、3対3のグループ面接のとき、最初の質問で「4年間、大学で何をしてきましたか」と聞かれて、まあ面接の練習なんて全くしてなかったんですけれども、「陸上漬けでした」と即答しました。ボランティアをやってましたとか言ってる人もいて、それが正解かと思ったけれど、ボランティアも大切だけれど、その2人よりも濃い時間を過ごしてきた自信があります。みんなもこの場所に立つときに胸を張って言えるようになってほしい。今後の進路は、福島大学の大学院に行くことになったので、陸上部にどのような形で関わって行くかまだ決めていないけれど、普段どっかで見かけたらよろしくお願いします。

中川 源輝
 川本先生、4年間お世話になりました。先生に「なりたい自分があるなら自分で変えていけ」と言われる中で、目標に向かって努力することの大切さが分かりました。ありがとうございました。こんにちは、大学入試を裸足で突破した中川です。僕は人と違うことをしたいので先に進路のことについて話したいと思います。進路は地元愛媛県の宇和島市の消防職員として、働くことになりました。4月から半年間初任研修として消防学校に行き、9月から宇和島の消防署勤務になります。よく初任研修はきついと聞きますが、卒業した千葉さんから、「辛い・疲れた・もうだめだでは人の命は救えない」と言われ、この陸上部で4年間やってきて、それでは速く走れないというのと同じだなと思いました。次に思い出話をしたいと思います。印象に残ったレースは、去年の総体で、夏に最後の最後に怪我をして、辛くてやめようかなとも思ったけど、みんなが心配してくれて、支えてくれて自己ベストを出すことができました。2年生の時、4継でバトンをミスりまして、そんなのは福大のリレーではないと、先生に言われ、その通りだなと反省しました。感動したレースは、怪我をおしてでも駒田や岡田が大会に出てたことです。傍島とのハードル対決や、苅田が10秒台出たかなと、自分がアップしている時に、こそこそ結果を見たり、伊藤がこの試合を何秒で走ったかなとか、上村が足痛い足痛いといつも言ってて、心配だったです。他にもいろいろ思い出して、この部にいると自分のレースはもちろん他の人の試合を思い出して、高校まで個人だと考えていた陸上がここにきて、他の人のことをもっと見ることでより鮮明に一瞬一瞬思い起こすことができました。みんなに出会えてよかったです。そして出会いをつくってくれた陸上競技にも感謝しています。地元にも陸上好きな人がいて、一つの目標に向かってがんばっている人の街を、一社会人、消防職員として、がんばっていきたいです。